山国ブータン王国−39(プンツォリンへ)

1997年12月28日

 1997年12月20日(土)〜21日(日)にインドとの国境の町プンツォリンへ行った。

 そう、派遣1ヶ月前まで私が行くことになっていた町である。この町は「ブータンの商都」とも呼ばれ、ブータンで最も商業のさかんな町である。ブータンには、ほとんど工場というものが無く生産能力がほとんど皆無である。したがって、物は一部の空路から入ってくるものを除いて、すべてインドから入ってきている。その入口がプンツォリンなのである。

 本当は、このプンツォリン5ヶ月前の赴任研修の時に行けるはずだった。目的は、ティンプーより安く手に入る日用品や電気製品、寝具の買い出しだったのだが、7月は雨季のシーズン真っ只中で、途中の道路でひんぱんに土砂崩れが発生するためここまで延期になっていた。実際その道路を見ると、何箇所かその跡があり、それを最低限に復旧させてあるだけであった。斜面の補強工事というのは全くやってない。しかし、全体の景色を見ると、ここは自然に対して最低限に手を入れてあるだけであり、自然と共存しているなと感じることができる。

 日本では、崖崩れが起こるとその管理者が責任を追及されるが、ブータンでは「自然には逆らえません。だから崖崩れを防止することはできません」という考え方であり、私も同意見である。しかし、他の隊員は「ただ、金と技術が無いだけやないか!」と言っているが。。。

 プンツォリンは、首都ティンプーからひたすら南へ約200km、ティンプーが標高2300mに対して、プンツォリンはたった200mの亜熱帯気候である。この日朝8時にティンプーを出発、山の斜面をくりぬいた道をくねくねと延々6時間走り続けた。これだけ走ってもトンネルは1つもない。やっぱりこの国トンネルが無いようだ。

 この車中は、カーブの連続でとても気持が悪く、情けないことにプンツォリン到着直前に、ついに吐いてしまった。食べた朝食が全部でてきた。車酔いで吐いたのなんて小学校以来であった。

 真冬のティンプーに対して、プンツォリンは初夏のような気候であった。「おー熱帯や!空気もちょっとは濃いかな?」が到着した我々の最初の感想だった。人も多いし何か活気がある。これこそ熱帯の発展途上国の雰囲気だ。

 この町は、インド側は「ジャイガオン」という町であり、町の中に国境がある。国境といっても地図上の国境みたいなもので町を歩いているといつのまにかインドに入ってしまう。面積的には、ジャイガオンが8割、プンツォリンが2割といったところか。ブータン側では英語が通じたが、インド側にいくとヒンズー語の世界になっていて、ほとんど英語が通じなくなっていた。


写真:プンツォリンにある国境の門

 到着して、ホテルにチェックインし、早速ホテルから出ると、5、6人の「物ごい」が寄ってきて、金品を要求して手を差し出してきた。このホテルはプンツォリンで一番いいホテル(といってもスイートルームが1人一泊1350円)のため、いつもここで金持客を待ち伏せしているようだ。子供も大人もいる。どうやら、彼らはインド側から来ている物ごい一家のようだ。

 びっくりしたのは、歩けない障害者もいたことだ。彼は小さいころに足を縛り付けられ、わざと歩けないようにされたらしい。地面をはいつくばって、我々に近寄ってきた。インドでは物ごい一家に生まれると、健康児より障害児の方が金品を恵んでもらえるため、親にわざとそうされてしまうらしい。これは、悲しい現実だ。インドは人口9億人で、中国に次ぐ2番目に人口の多い国である。しかし、一説によると人口の15%は最貧困層であり、このような生活をしているのが実態のようだ。

 これをまじかで見てから「ブータンはなんていい国なんだ。」と感じるようになった。ティンプーやパロには、物ごいはほとんどいない。インドに比べれば、ここは治安も良く平和であり、モノは無いけどいい国である。冬は寒いけど、ここは標高が高いため「マラリア」などの熱帯病もない。

 結局プンツォリンでは、適当に買い物をしインドカレーを食べて、日曜日の朝にはティンプーへ向かって出発した。帰りは、朝ごはんをあえて食べなかったので、途中で吐くこともなく、車中では会話で盛り上がりながら、午後4時30分ころティンプーに到着した。一味違ったブータンを見ることができた、いいプンツォリンの旅であった。



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