1997年9月11日
1997年8月31日(日)夜、広島県から来た船越御一行17名のレセプション(歓迎会)が、ティンプーの最高級ホテル、ドゥルックホテルで催された。昼間に行われた船越の卓球大会に私も出場したため、夜の部も出席することとなった。
ブータン側からは、BOC(ブータンオリンピック委員会)の委員長をはじめとするお偉い方々が数名出席し、船越の人々にブータンへの援助に対する感謝の意志をあらわした。レセプションは、ブータン側と船越側が向かい合って座る形で行われた。もちろん私はブータン側に座った。
私はいやな予感がした。船越公民館ご一行は、みんな60才以上の面々でどう見ても英語が話せるとは思えない。みんな広島弁を駆使し、レセプションは日本のペースで進行している。さて、このおじいさんおばあさん達とブータンの偉い方々とはどうやって懇親を深めるのだろうかと感じた。が、私は初めて食べる最高級ホテルの食事に目がくらみ、それをたらふく食べることしか頭に無かった。
はじめの乾杯が終わるやいなや、私はすばやくバイキングテーブルへ行き、皿にこれでもかというほどの食事を盛り、席へ戻った。さて食べようと一口目を口に入れたとき「お兄ちゃん通訳してくれんか」と頼まれた。ここで「いや、僕もさっぱり英語が分からないんです」と断れば、私の席の回りは多分しらけてしまう。私が通訳となり両者のコミニュケーションの橋渡しをすることになった。結局、ここから先レセプションが終わるまでほとんど食事を食べることができなかった。
私の気持ちは(たのむから簡単な質問をしてくれ)だった。質問は「子供は何人いますか」「3人です」「その子供たちはもしかして大学生ですか」「いいえ、3人とももう結婚しています」このあたりまではまだよかった。それから「あなたの職業はなんですか」(65才のおばさんが働いとるわけないだろ)「わたしは公民館の役員をやってます」(公民館がブータンにあるわけないだろ、公民館ってどうやって説明するんだ)などとだんだん訳が分からなくなってきた。ここで気づいた事は、通訳の人は「何を言っているか分からない」とは絶対言えない立場であることである。これを言ってしまうと、両者の会話が止まってしまい場がしらけてしまう。したがって、私はだんだん勝手に想像で訳す世界へと入っていった。
「どうせ両方ともわかっちゃあいないんだ、それならおもしろく会話を作ってしまえ!」と気持ちをさばいてしまえば、酒も入っている私は強かった。なんとか場がしらけずいい雰囲気で会話が進み、やがてダンスタイムに移っていった。(ほっ)ダンスタイムでは、おばあさんたちが日本の踊り(さくらさくら・月が出た出た)を披露して、ブータン人たちはとても歓喜した。「おおすばらしい。私も何回か日本を訪れた事があるが、これは初めてみた。」(そりゃそうだ、普段誰が踊るもんか)と心の中で思いつつも「はい、実は日本人が一番好きな踊りはこれなんですよ」と言ってさらに喜んでもらった。(このうそつきめ!)
この夜、通訳もどきをやってみて思ったのは「これから俺は通訳の訳をあまり信じないでおこう」である。よく聞き取れなかったときは想像ででも訳すしかない立場だということがよく分かった。通訳の訳は、参考にこそできるがすべて信じるのは、間違いだと感じた夜だった。